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影の人形たち ―いまだ見ぬものに向かって

影の人形たち
―いまだ見ぬものに向かって

[ ある人形譚 ]
私の人形は、日日の生活誌そのものといっていい。
 その時そのときの、ささいな感情、鬱屈や倦怠、謂われのない恐れやら不安などを、これらの亡霊たちが、一針ひと針引き受け、縫い取られることによって救ってくれた、不思議な軌跡がここにあるだけだ。
自然のなかで感じたこと、四季の風や空気に遊んだ、小動物のような自分もいる。
アートビオトープ那須の社主、北山ひとみさんの、優れた花の作家、西別府久幸さんと今回コラボレーションせよ、という要望に答える。
「あなたのダダ人形も、一種の生花でしょ?」という主旨らしい。

ベルン美術館の至宝、ポール・クレーの「襤褸布」人形を見たとき、なぜか妙に親近感があって、長く忘れずにいたことが由来といえば言える。自分では人形づくりは、念仏仏師円空さんの、祈りや巡礼と同じと考えている。脳裏にはいつも、ロマン派の領将リストのかの名高い、「巡礼の年」のピアノが響いている。
使う布は、ほとんどすべて、古里尾道の母が洋裁仕事で使っていた端布。記憶の奥底に、若いお針子さんに囲まれて、甘やかされて育った独りっ子の自分の姿がある。
戦後の日本では、女性の自立はまず、洋裁から始まったといって過言でないが、母は森英恵さんと同じ歳である。
だから私にとって、布地とは母性もふくめた女性そのもの、世紀末ドイツの詩人リルケのごとく、自らの内なる女性性への旅の標なのである。

[ 言葉の人形たち ]
 劇場が好きで、よく出かける。
 きらびやかなロビーの雰囲気や、幕間のざわめき、華やかなさんざめき、、、刹那的で虚栄的な、はかない美を愛おしむ。
 劇とは、その瞬間瞬間に生起する、いっしゅんの光芒を待ち望みながら、観客それぞれが育てた長い「待つ時間」が演じる庭でもある。クレーは、「劇こそが、地上的なものと天上的なものが交わる場だ」と言ったそうだ。(註1)

[ 三島由紀夫好み ]=第1、2室。
 近代日本文学の天才というと、宮澤賢治は別格として、私には三島由紀夫となる。
三島由紀夫『近代能楽集』の、「綾の鼓」と、「弱法師」を観た。
 まずは、「綾の鼓」で、通りの向こうの、片思いの法律事務所の老小使いを、音の出ない、「綾の鼓」を打たせて、冷酷に死なせ、その後に小使いの霊と語らう、元娼婦=現貴婦人の、洋裁店サロン顧客、「華子」。
 つぎには「弱法師」の、両親と生き別れて、貰い子として育てられた、悪魔のごとき、冷血漢たる、孤独な盲目の青年「俊徳」。
 戦後の闇市をむろん、私は知らないが、貧しくてもあんがい、今よりもっと、過ごしやすかった、「安心」の時代だったのかもしれない。その裏腹、表裏鏡合わせの齟齬が、この一見冷酷な、盲目の捨て子に宿っているように感じられて仕方ない。私はけっして、この少年を、非情とは思わない。
 アートビオトープ那須のカフェが「Kantan」と名づけられたことにちなんで、かつて人形劇団「結城座」が池袋の東京芸術劇場で演じた、「邯鄲」から。
 ここでは乳母の家に行っても、ただ眠って夢ばかり見ている虚無主義者、いくら豪勢で豪華な夢を見ても、忘れて?寝入ってしまう、夢遊病者のような「次郎」。
  
[ ワーグナーのオペラ、タンホイザー ]=第3室。
 北山ひとみさん、実優さんと語らって那須で始めた身体で学ぶ自由大学に「山のシューレ」があって、これは、世界中のクラシック・ファンの集まる「バイロイト祝祭音楽祭」の日本版を目指したものでもある。
 19世紀ロマン派の巨人芸術家、ワーグナーがニュルンベルクの郊外の丘につくった自らの為の劇場。
 そこで、「ヴィーナス」の谷で彼女との性愛に溺れてしまったために、純潔の恋人「エリーザベト」を失って、最後は巡礼から戻って果てる、悲劇の騎士、「タンホイザー」。

[ またしても、三島 ]
 「癩王のテラス」や、「我が友ヒットラー」と並んで、三島戯曲の三大傑作といわれる「サド侯爵夫人」を、かつて東京グローヴ座で、篠井英介主演で観た。何と、オールメール(皆が女装の男優)である。最高に興奮した。
 人形は、「サド侯爵夫人」、「マルキ・アルフォンス・ド・サアド」である。
 篠井英介のサド夫人は、そのロココ的人工性において、私には、過去最高の、適役だったと思う。サド侯爵。むろん、彼は劇中に登場しない。だからこそ、もっとも大切な、人間のあらゆる奥底にある、「無垢の罪」を代弁しているのであろうか。
 滞欧から戻った三島は、『太陽と鉄』だったかで、たしか、ギリシャ以来の西欧演劇のもつ、論理劇的ロゴス性に対して、能は、世界に類例のない、非=論理叙述劇、つまりは、「純粋詩的で、行動的な」表現であると喝破したと記憶する。
 三島の近代能楽集は、だから座右にある。

[ エルザ・フライタグ・フォン・ロリングホーフェン ]=第6室。
 ここからは、文学というか、文字書き女性、近代の天才三人衆の部屋となる。
 名前からして、舌を噛みそうだが、ドイツ女性にして戦前貴族と結婚したから「フォン」が付いた。ところが彼女、根っからの「価値氾濫者」にして、ダダイストで、ニューヨークで暮らした。
 全裸でパフォーマンスなど、朝飯前のアヴァンギャルドだった訳だが、作品はほとんど残していない。水道管を曲げた、即物工業製品エロス物体や、最近アメリカで出版された詩集=断片だらけだが、これもほとんど性のエクスタシーをダダ的に表現した、訳の分からない代物だらけだ。
 まあ、この人、生きていた生身そのものがアートだった、典型的な人物だろう。ここ数年は、彼女にオマージュした作品をやけに多作している次第。

[ 尾崎翠 ]=第7室。
 私の女神である。
 昭和の初めに出た、稀代のシュール小説『第七官界彷徨』一作によって、近代日本文学に屹立する、魔神。映画評論もある。映像的作家として、宮澤賢治とならんで、嚆矢とされるだろう。
 鳥取の出身で晩年は郷里に引き籠った。
 「私は、古里をもたない。宿命的に放浪者である。」の『放浪記』の林芙美子とは、東京での仲間だった。
 『第七官界彷徨』は、田舎から出てきた主人公(妹)が、苔の恋愛を研究するために、二十日大根の畠を、蛍光灯のしたで、培養している兄次郎や音楽の長兄、などの家事の世話をするほんの数日の、可笑しな、変な、普通の日常を描いたもの。

[ ガートルード・スタイン ]=第8室。
 アメリカ人で、パリで第一次大戦前からパリで暮らし、ヘミングウェイとか、ジェームズ・ジョイスとかと親しかった、謂わばサロンの女主人公。
 彼女のものした「詩」は、ジョイスのそれと並んで、「20世紀前衛文学の金字塔」とされる。何が「金字塔」なのかというと、一般的には「文字列はそれなりに読めるんだが(難解な熟語など皆無だから)、それが何を言っているのか、意味しているのか、サッパリ分からない」という意味において、金字塔なのである。
 「前衛」というと簡単だが、まあ、ここまで「前衛」な人を知らない。そういう意味で、女神の一人。
 何でもずいぶん金持ちの娘さんであったらしく、お兄さんのレオ・スタインは、ピカソの初期、青の時代からピンクぐらいまでのパトロンにしてコレクターだった。レオは20世紀の巨匠建築家コルビュジエに、当時最新鋭の自宅を設計させたりもしている。
 ところが、今はニューヨークの近代美術館、通称MoMAの看板絵画でもある、20世紀絵画の傑作有名作、ピカソ「アヴィニオンの娘たち」を見せられて、流石に「人間じゃない、アフリカの仮面かあ?身体も何でこんなにガタガタに描く?こんな醜い変な絵は、ちょっと御免だなあ!」と拒否したのに、妹のガートルードはその後も怯まず、「やれやれ!」ということで、キュビズムへの道を突っ走らせた、らしい、ということでも知られている。どこで読んだか聞いたかは、もう忘れたが。
 メトロポリタン美術館に、ピカソの描いた彼女の肖像がありますよ。
 料理が好きで、食べるのが好きで、生涯の愛人、アリス・トクラスと仲良く暮らし(レズビアンですからね)、『アリス・トクラスの料理本』は一時期、戦後のグリニッジ・ヴィレッジのビートニク世代の小脇に抱えられていた人気本だった、ときいた。(金関寿夫先生の伝記だったか?)
 主著はいろいろあるが、やっぱり不思議詩、奇詩の代表は『やさしい釦』と、ここに美しい初版を飾っている、童話『地球は丸い』だろう。

(この解説は、いろいろな資料から借りていますが、自分の想像や、古い記
憶などともごちゃごちゃになっておりますので、典拠はいっさい省きます。註1だけは、かつて「山のシューレ」にご登場いただいた、デザイン学の泰斗、向井周太郎先生の言から借りました。)